潜入捜査 ーAt the Partyー

 暗い闇夜を照らす柔らかい光が、タクシーの窓越しに後ろへと流れていく。車はゆっくりと減速し、横に座っていた赤井さんが胸ポケットに手を忍ばせた。いかにも上質そうな紺のスーツを着て、髪も後ろへ流すように綺麗に纏めている姿は貴族の人かと思うほど。気品溢れるその立ち居振る舞いは、私とは別世界の人だと認識するのに十分すぎる。

「名前」
 
 赤井はさんはこちら側へ回るとドアを開け、私に手を差し出した。でも視線はいつも通り、鋭く周囲を見渡している。

「ありがとうございます」

 そっと赤井さんの手に触れて、高いヒールを地面に下ろせばコツンと足元が鳴った。長袖のロングドレスの裾を少しだけ持ち上げながら、優雅に見えるよう車から降りると涼し気な夜風が首元を撫でていく。

「行こうか」

 優し気に聞こえた赤井さんの声に、少しだけ口元が動いてしまった。エスコートするように片肘を差し出されて、私はその隙間へ自分の左手をそっと差し入れる。

「本当に驚かされるね。君には」

 少し揶揄うようなその言葉に、私の悪戯心が刺激された。

「どうしてです?」

 わざと距離を縮めて、熱を含ませるように赤井さんを見上げてみる。愛を伝えるかの如く微笑んでみると彼は息を吐くように笑った。

「まったく、どこにそんな引き出しがあったのか」

 本当にそう思っているのかどうかは分からない。多分これは違うのだろう。いつも通り余裕そうに笑みを浮かべ歩みを進める赤井さんに、ダメ押しで身体を擦り寄せてみると、彼の眉間に皺が寄った。

「……使う相手が違うぞ」

 男を誘うような行動は、ターゲットにだけにしてくれと。声のトーンからこの遊びの終わりを察し、私は赤井さんとの距離を程よく戻した。

「でも、今日のターゲットは赤井さんです」
「ん?」
「恋人なんですから」
「……そこまでしなくとも、誰も見ていないさ。普通にしろ」
「はーい」

 今日の捜査は、あるパーティへの潜入。不動産会社が資産家向けに開いたものだけれど、この会社役員の男には裏の顔がある。そして今回、ある情報をFBI にリークした女性の協力の元、潜入捜査をしていた。

「でも、本当に素敵です。赤井さん」
「何だ急に」
「だって、何をしても様になっちゃうんですから」

 これは任務に集中する前の、軽いトーク。今日のメインは女性の警護および情報収集のため少し余裕がある。緊張感はありつつも、これくらい遊んだって構わないだろう。

「君もな」
「……え?」
「綺麗だ」

 赤井さんは足を止めて、しっかりと私を見つめてくれる。急なことに上手く返しが出来なかった。でもハッと気づいて私は再度、身体を寄せるように赤井さんに近づく。

「さ、さすが旦那様!」
「……恋人の設定じゃなかったのか?」

 綺麗と言われて、真に受けてしまった自分が恥ずかしい。当然、あの言葉はカモフラージュするためのもの。動揺したところを見られたと思うと余計に居心地が悪かったけれど、赤井さんがターゲットの男を目視したため私も任務に集中していった。

“五時の方向、奴が向かっている”

 パーティも中盤。警護対象の女性を化粧室まで付き添った後、会場に戻ろうとしていたら赤井さんからインカム越しにそう伝えられた。やや気を引き締めて様子を伺っていると、後方に人の気配を感じる。

「やあ、お嬢さん」
「……どうも」
「君、見ない顔だね」
「招待客全員の、お顔をご存じで?」
「いや、だが君のような女性は目立つ」

 男の視線が、全身を舐め回すように上下に動いていく。顔を歪めたくなるのを必死に堪えていた。

「そう、でしょうか……?」
「日系か?なぜ、気づかなかったのだろう」
「今回、初めてご招待いただきましたので」
「そうか。初めてか」

 私は必死に口角を上げながら、控えめに男へ視線を送った。せっかく相手から接触してきたのだから、こんな機会を逃す訳にはいかない。しばらく泳がせるように会話をしていると、気を良くしたのか男が私の腰に手を回してきた。すりすりと、お尻の方まで触れられて鳥肌が立ってくる。

“名前、もういい。一度離れろ”

 今回は男と知り合えただけで充分。怪しまれる前に引き上げろという指示が耳に聞こえるけれど、男は本来の目的を示唆するようなことを仄めかし始めていた。やはり、ここで引くのは惜しい。

「お嬢さん、乾杯をしよう。せっかくの出会いだ」
「……嬉しいです」

 私は手渡されたグラスを軽く上げ、口をつける。飲むふりに留めようとするものの、唇にシャンパンが触れた。しまったと、思った瞬間、誤って少量飲み込んでしまう。

「ああ。それと上にね。部屋があるんだ」
「……へ、や?」
「自由に使える。楽しいことができる……分かるだろう?」

 首元に男の息がかかり、背中がぞわりと震えた。私はまだ単独の潜入捜査をしたことがない。でも証拠が手に入るのであれば、部屋に行くことぐらい。

「なんですか、楽しいこと、って……?」

 男の太い首に腕を巻きつけながら、私は袖に隠してあるマイクのスイッチを入れる。上手く会話を導いて証言を聞き出せば、赤井さんたちが裏を取りに行ってくれる。後は、それまで時間稼ぎをすればいい。

「そうなんですね……でも、その言葉が本当かどうか」
「なら部屋に行こう。君が彼女と知り合いなら特別だ。先に取引してもいい」
「……いいんですか?」
「ああ、楽しみはその後でも、構わないよ……さあ」

 飲んで、と男は私の耳元で囁く。熱の籠った吐息が皮膚を撫で、ぞわりと背筋が凍りついた。

“っ、名前、よせ”

 赤井さんの低い声が耳に聞こえるけれど、ここで引き下がるわけにはいかなかった。私は男から視線を外さず、彼の言う通りグラスに口をつける。ごくりと、男を挑発するかのようにシャンパンを呷った。

“よせと、言って……っ!”

 インカム越しに怒りを含んだ赤井さんの声が聞こえた。視線を向けると、彼は人の合間を縫うようにこちらに向かってきている。でも人が多すぎる。

“……っどいてくれ!”

 ウエイターとぶつかり、シャンパンが零れていた。赤井さんの言葉も聞こえていたけれど、私はもう振り返らない。男に腰を抱かれながら会場を後にしていった。

「ん?どうしたのかな?もう酔ったのかい?」

 エレベーターに乗り込むと、男の手が背中や腰、胸の方までにも這い上がってきた。わざとらしいその笑みが気持ち悪い。必死に、照れたような笑みを作りながら浮かべながら抵抗するしかない。廊下に出ても相変わらずな触れ合いに虫唾が走る思いだったけど、男にバレないようにインカムを落とすことには成功している。

「やっと二人きりだね、お嬢さん」

 案内されたのは最上階のスイートルーム。ラグジュアリーな家具の揃った広い部屋に思わず息を飲んだ。とにかくここを無事に出るためにも、武器になりそうなものをいくつか見繕うけれどドクドクと脈打つ心臓の音が煩くて思うように思考が働かない。息も、少し苦しい。

「なら約束通り……先に取引、だったかな?」

 にやついた顔でパソコンを開く男に、笑みで応える。そんな余裕もあった筈なのに、男がパソコンを操作している間、いよいよ立つのが辛くなってきた。やはりあのシャンパンには、何かが入っていたのだろう。睡眠薬に似たものかもしれない。焦れば焦るほど脈が早まっていく。

「どうした、顔色が悪いな?」
「っ、いえ……」

 何とか持ちこたえながら取引の行方を見守り、そうしてようやく決定的証拠を目にした瞬間、仲間に伝えようとマイクに手を伸ばした。

 でも、力が入らない。急に膝の力が抜けて、身体が傾いた。咄嗟に手を付こうとするものの、上手く動かせず腕から倒れ込む。

「随分と、効くのが遅かったみたいだ。それとも君は耐えるのが上手なのかな?」

 男は余裕そうに笑いながら、私を見下ろしている。まずいと思うのに、抵抗しようにも力が入らない。

「僕の趣味なんだ……暴れる女も過去にいたからね」

 男は、床に伏したまま動けないでいる私に馬乗りになる。肩を床に押し付けるように強く掴まれて、顔が歪んだ。辛うじて手首のマイクを体に押し付けてスイッチを入れるけれど、マイクが機能しているかは分からなかった。

「そうや、って殺したのっ?……ニュースで見た、あの、っ」
「ああ、彼女は頭の悪い女だったよ。君は違うと良いな」

 男は気持ちの悪い笑顔を向けると、私の片膝を持ち上げて横に開く。ドレスの裾を捲るように男の手が肌をなぞってくる。膝裏から腿の内側を伝うような手つきは、私の反応を愉しむようないやらしさを含んでいて屈辱感に涙が込み上げてくる。

「うっ……っ!」

 脚の付け根、その奥を生ぬるい男の指が撫で涙が零れ落ちる。

 そんな姿こそ見せては相手の思う壺だというのに、止められなかった。男の体重がさらに加わり腰が密着する。首筋に吐息が掛かり、気持ちの悪さから必死に息を止めた。

「ああ……きもちいねぇ?」

 やわやわと執拗にそこを触れられるのに耐えるため、辛うじて顔を背けながらベルベットの床を見つめる。本来であればこんな男、簡単に制圧できるはずなのに。こんな男に、好き勝手に触れられることなかったのに。

「っはぁ、んんん、かわいいね?」

 気色の悪い声を出しながら、男はバックルに手を掛ける。もうダメかもしれない。遠くの方で思ったその時、部屋のドアが激しく開かれる。FBIだと名乗る声を聞いて、一気に緊張の糸が切れそうになった。

「あ……っ」

 男の身体が離れたと思ったら、彼は赤井さんによって力強く引き上げられている。どんっと壁に強く押さえ付けられていた。

「っ、覚悟しておくんだな、」

 聞いただけ、私まで震えてしまいそうだった。かちゃりと、手錠が掛けられる音がしてようやく息を吐く。もう、終わったんだ。必死に保っていた意識を手放してしまいたくて堪らない。

「連れていけ。それと救急隊を、」

 ああ、でも、やってしまった。赤井さんに怒られてしまう。そう思っていたら私の腰元へ、スーツのジャケットが掛けられる。ふわりと、とても温かくて、微かに香った煙草の匂いにホッとした。

「すみ、ま……」
「それについては後だ」

 赤井さんは、やっぱり怒っているみたいだ。けれど、そっと私の首筋に触れて脈拍や瞳孔の開きを確認している様子はいつもと違う。

「っ……こんなこと、してくれるな」

 そう聞こえたけれど、視界は完全に真っ暗に。聞いたことのない、酷く、苦しそうな声だったのは幻聴だったのか。

 最後に赤井さんが、荒く私を呼んだ気がしたけれど、そこで意識を完全に手放していた。